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「アニメーターは良い職業だった」宮崎駿監督、公式引退の辞/引退会見 全文

風立ちぬ

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現在公開中の『風立ちぬ』を最後に引退を表明していた宮崎駿監督の引退会見が6日(金)、都内のホテルで行われ、宮崎監督とスタジオジブリの鈴木敏夫プロデューサー、星野康二社長が出席。宮崎監督が50年以上にわたる自らの仕事を振り返り、今後の活動についても語った。
「僕の長編アニメーションの時代は終わった」宮崎駿監督、公式引退の辞/引退会見 全文
9月1日に第70回ヴェネチア国際映画祭で発表された「宮崎駿監督引退」。このニュースは世界中でも報道され、9月6日に東京・吉祥寺のホテルで行われた引退会見には、13ヵ国から605人の報道陣が詰めかけた。14時ちょうどに始まった会見では、宮崎監督は終始晴れ晴れとした笑顔で臨み、約1時間40分にわたり記者からの質問に応えた。
以下、マスコミに配られた「公式引退の辞」と、引退会見の質疑応答を全文でお届けします。


公式引退の辞
宮﨑 駿
 ぼくは、あと10年は仕事をしたいと考えています。自宅と仕事場を自分で運転して往復できる間は、仕事をつづけたいのです。その目安を一応“あと10年”としました。
 もっと短くなるかもしれませんが、それは寿命が決めることなので、あくまでも目安の10年です。
 ぼくは長編アニメーションを作りたいと願い、作って来た人間ですが、作品と作品の間がずんずん開いていくのをどうすることもできませんでした。要するにノロマになっていくばかりでした。
 “風立ちぬ”は前作から5年かかっています。次は6年か、7年か……それではスタジオがもちませんし、ぼくの70代は、というより持ち時間は使い果されてしまいます。
 長編アニメーションではなくとも、やってみたいことや試したいことがいろいろあります。やらなければと思っていること――例えばジブリ美術館の展示――も課題は山ほどあります。
 これ等は、ほとんどがやってもやらなくてもスタジオに迷惑のかかることではないのです。ただ家族には今までと同じような迷惑をかけることにはなりますが。
 それで、スタジオジブリのプログラムから、ぼくをはずしてもらうことにしました。
 ぼくは自由です。といって、日常の生活は少しも変わらず、毎日同じ道をかようでしょう。土曜日を休めるようになるのが夢ですが、そうなるかどうかは、まぁ、やってみないと判りません。
 ありがとうございました。
以上


宮崎駿監督挨拶:「公式引退の辞」をお渡ししてありますので、質問をしていただければ何でも答えます。一言、僕は今まで何度も「辞める」と言って騒ぎを起こしてきた人間なので、「どうせまただろう」と思われているんですけれど、今回は、本気です(笑)。

鈴木敏夫プロデューサー:お集まりいただいてありがとうございます。始まったものは必ず終わりが来る。そういうものだと思います。落ちぶれて引退するのは格好悪いと思っていたので、ちょうど今『風立ちぬ』が公開され、支持されている時に決めたのは良かったんではないかと思ってます。今後ジブリはどうなるか、当然疑問を持たれると思いますが、11月23日に公開の高畑勲監督の『かぐや姫の物語』。これは心配掛けてますが、だいたい目処も見えてきたので必ず公開するとお伝えします。続いて、まだ発表できないが、来年夏を目指してもう一本映画を制作中であります。

≪マスコミより質問≫

──監督の引退報道を受けて子ども達から「ありがとう」とメッセージがありました。監督からも子ども達へのメッセージをお願いします。
宮崎:そんなに格好いいことは言えません。何かの機会があったら、私たちの映画を観てくだされば、何かが伝わってくれるかもしれません。
──長編の監督を辞めると理解していいのでしょうか。今後やりたいと思っていることを具体的に教えてください。
宮崎:(「公式引退の辞」を)よく書いたなと思ったんですけど(笑)、僕は自由です。やらない自由もあるんです。車を運転できる限りは、毎日アトリエに行こうと思ってます。それでやりたくなったものや、やれるものはやろうと思う。まだ休息を取らなければいけない時期なので、休んで色々とわかってくるだろうと思うが、ここで約束すると破ることになってしまうので、ご理解ください。
──1984年の『風の谷のナウシカ』の続編は考えていませんか?
宮崎:それはありません。
──(韓国のメディアより)韓国のファンに一言お願いします。韓国で話題になっている「ゼロ戦」について、どうお考えですか?
宮崎:映画を観ていただければ分かるとは思うんですけど、色々な言葉に邪魔されないで観ていただけたらいいなと思います。色んな国の方々が私たちの作品を観てくださっているのは非常にありがたい。同時に、『風立ちぬ』のモチーフそのものは、日本の軍国主義が破滅に向かっていく時代を舞台にしていますので、色んな疑問が私の家族からも自分自身からもスタッフからも出ました。それにどういう風に応えるかということで映画を作りました。映画を観ていただければ解ると思います。観ないで議論しても始まらないので、是非お金を払って映画を観ていただければ(笑)。
──今後、ジブリの若手監督の作品に監修やアドバイザー、アイデアの提供、脚本などで関与することはありますか?
宮崎:ありません。
──今回は「本気です」とのことですが、今までとは何が一番違うのでしょうか?
宮崎:『風立ちぬ』は『ポニョ』から5年かかってるんです。もちろんこの間、映画を作り続けたわけじゃなく、シナリオを書いたり道楽の漫画を書いたり、色んなことをやったが、やはり5年かかる。今、次の作品を考え始めると、この年齢ですからたぶん5年じゃすまないでしょう。次は6年かかるか7年かかるか…。あと3ヶ月もすれば73歳になりますから、そこから7年かかると、80歳になってしまうんです。この前、(作家の)半藤一利さんとお話をしました。彼は83歳ですが、背筋が伸びて頭もはっきりして本当にいい先輩がいると思った。僕も83歳になった時、こうなっていたらいいなと思ったもんですから、「あと10年仕事を続けます」と言っているだけでして。続けられたらいいと思いますが、今までの仕事の延長上には自分の仕事はないと思っています。僕の長編アニメーションの時代は、はっきり終わったんだと。もし自分がやりたいと思っても、それは年寄りの世迷い言だと片付けようと決めています。
──引退を正式に決めたのはいつですか?鈴木さんはどんな対応をしたんですか?
宮崎:よく覚えていないんですけれど、「鈴木さん、もうだめだ」と言ったことはあります。鈴木さんは「そうですか」と。何度もやってきたことなので、その時に鈴木さんが信用したかどうかは分かりませんが。ジブリを立ち上げた時に、こんなに長く続けるとは思わず、何度も「引き時なんじゃないか」「辞めよう」という話をしてきた。今回は「次は何年もかかるかもしれない」という話に、鈴木さんもリアリティを感じたんだと思います。
鈴木:正確に覚えていないが、『風立ちぬ』の初号試写があった頃、6月19日直後だったと思います。確かにこれまでも「これが最後だ」という話があったが、今回は本気だなと感じざるを得ませんでした。僕自身が『ナウシカ』から30年、その間色々あり、30年間緊張の糸がずっとあったと思う。その緊張の糸が今回、少し揺れたんです。別の言い方をすると、僕自身が少しホッとするみたいなところがあった。若い時だったらとどめさせようという気持ちも働いたと思うんですが、今回は「ご苦労さまでした」という気分がわいた。ただ、僕自身は『かぐや姫』を公開しないといけないので、途切れかかった糸をもう一回縛って仕事してます。

皆さんに、いつどうやって知らせようか話し合いました。まず言わなくちゃいけないのが、スタジオで働くスタッフに対して。ちょうど『風立ちぬ』の公開があったので、僕としては映画を公開してすぐ引退を発表したら話がややこしくなるので、公開が落ち着いた時期、8月5日に社内に伝えました。映画の公開が一段落した時期に、皆さんにも発表できるかなと。そんな風に考えたことは確かです。
──(台湾メディアより)台湾のファンにとってジブリ美術館は観光名所になっています。引退後は、旅行をかねて海外のファンと交流する予定はありますか?
宮崎:ジブリの美術館の展示その他については、ボランティアになると思いますが、私も関わらせてもらいたいと思ってます。自分も展示品になっちゃうかもしれませんが(笑)、是非、美術館にお越しいただいたほうが嬉しいです。
──(鈴木プロデューサーへ)『風立ちぬ』が最後になるという予感はありましたか?
鈴木:宮さんの性格からして、死の間際までずっと作り続けるんじゃないかと思っていました。全てをやるのは不可能かもしれないけど、何らかの形で作り続ける。そんな予感の一方、宮さんと35年付き合いで常々感じましたが、別のことをやろうとする時に自分で決めて、皆に宣言する人なんです。決めて宣言して取りかかる。どっちかだろうと思っていました。『風立ちぬ』が完成を迎え、先ほど言ったようなこと(引退)が出てきた時、僕の予想の中に入っていたので、素直に受け止められたのかもしれない。
──引き際の美学はありますか?
宮崎:映画を作るのに死にものぐるいで、この後どうするか考えていない。映画が出来るのか、作るに値するものなのか、といった方が自分にとっては重圧でしたね。
──(ロシアのメディアより)外国のアニメーション作家からの影響について教えて下さい。ロシアのユーリ・ノルシュテイン監督など。
宮崎:ノルシュテインは友人です。負けてたまるかという相手でございました。彼はずっと外套を作ってますんで、ああいう生き方もある(笑)。今日、実は高畑(勲)監督も出ないかと誘ったんですけど、まぁ、「冗談ではない」という顔をして(笑)。彼はずっと(映画を)やる気だなと思っています(笑)。
──これまでの作品の中で、最も思い入れのある作品は?すべての作品を通して込めたメッセージとは?
宮崎:自分の中に棘のように残っているのは『ハウルの動く城』です。ゲームの世界をドラマにしようとした結果、本当に格闘しました。僕は児童文学の多くの作品に影響を受けてこの世界に入った人間なので、基本的に子供たちに「この世は生きるに値するんだ」と伝えることが、仕事の根幹でなければならないと思ってきました。それは今も変わっていません。
──(イタリアのメディアより)監督はイタリアが好きなんですか?半藤先生よりももっと(年齢が)上の方を目指したら、20年〜30年働けるのでは?また、ジブリの美術館で館長として働くと良いのではないか?
宮崎:僕はイタリアは好きです。まとまっていないところも含めて好きです。友人もいるし食べ物はおいしいし、女性は綺麗だし。ちょっとおっかない気もしますが。あと、10年仕事を続けられればいいと思っているだけなので、それ以上は望みません。それから、館長として「いらっしゃいませ」と言うよりは、展示物が10年以上前に描いたものなので、色あせたり描き直さなければならないものばかりで、それをやりたいと思っています。自分が筆やペンで描かなければならないものばかりなので、ずっとやらなければと思っていた。美術館の展示物は、毎日きちんと掃除しているはずなのに、いつの間にか色あせてしまう。部屋に入ったときに全体がくすんで見えるんです。一カ所だけキラキラさせると、不思議なことに子ども達がそこへ群がるというのがわかった。ですから、生き生きさせるためには、ずっと手を掛け続けなければいけないのは確かなので、それをやりたい。
──長編は引退ですが、展示の一環としてジブリ美術館で短編アニメーションに関わることは?
宮崎:「引退の辞」に書きましたように、僕は自由です。やってもやらなくても自由なので、今そちらに頭を使うことはしません。前からやりたいと思っていたことがあるので、そっちをやります。それはアニメーションではありません。
──(鈴木プロデューサーへ)宮崎さんや高畑さんが一線から退いたら、ジブリは今後どうなりますか?
鈴木:僕は現在、『かぐや姫の物語』(高畑勲監督)のあと、来年の企画に関わっています。僕も65歳です。このジジィがいったいどこまで関わるのかという問題がある。今後のジブリの問題というのは、ジブリにいる人たちの問題でもある。その人たちによって決まると思ってます。
宮崎:やっと上の重しがなくなるんだから、「こういうことをやらせろ」という、若いスタッフの声が鈴木さんに届くことを願ってます。それがないと駄目です。僕らも30歳や40歳の時に「やっていいんなら何でもやるぞ!」という気持ちで色んな企画を出しました。それを持っているかどうかにかかっている。鈴木さんは門前払いする人ではありません。今後のことは、いろんな人間の意欲や希望、能力にかかっているんだと思います。
──長編作品で、やってみたかった企画はありましたか?
宮崎:それは本当に山ほどあるんですけども、やってはいけない理由があったからやれなかった。辞めるといいながら、「こういうのをやったらどうだろう」というのは、しょっちゅうありますが、それは人に語るものではありませんので、ご勘弁ください。
──具体的に、これからどんなことをやりたいのか詳しく教えてください。また、今後違う形で何か発信することは?
宮崎:やりたいことはあるんですけれども、やれなかったらみっともないから言いません。僕は、文化人になりたくないんです。僕は「町工場の親父」でして、それは貫きたいと思っています。発信しようとか考えない。文化人ではありません。
──当面は休息を優先するんでしょうか。また、東日本大震災や原発事故が、新作『風立ちぬ』に与えた影響は?
宮崎:『風立ちぬ』の構想は、震災や原発事故に影響されていません。はじめからあったものです。時代に追いつかれて、追い抜かれたという感じを映画を作りながら思いました。僕の休息は、他人から見たら休息に見えないかもしれない休息でして。仕事で好き勝手なことをやっていると、大変でもそれが休息になることもある。ただゴロンと寝転がっているとくたびれるだけなので。夢としては…出来ないと思うけど、東山道を歩いて京都まで行ければいいなと…行き倒れになると思いますが(笑)。時々夢見ますが、たぶん実現不可能だと思います。
──『風立ちぬ』で時代に追い抜かれたということと、今回の引退は関係がありますか?
宮崎:関係ありません。アニメーションの監督は何やってるか、よくわからないと思いますけど、みんなそれぞれ仕事のやり方が違います。僕はアニメーター出身なので、描かないと表現できない。そうするとどんな事が起こるかというと…、眼鏡を外してこうやって(机に向って猫背気味に)描かないといけないんです。どんなに体調を整えて節制しても、集中する時間は年々減っているのは確実なんです。例えば、『ポニョ』に比べると、机から離れるのが30分早くなった。この次は1時間早くなるだろう。物理的な、加齢によって発生する問題はどうすることも出来ないし、苛立ってもしょうがない。違うやり方もあるかもしれないが、それが出来るならとっくにやってますから、僕は僕のやり方で貫くしかない。だから、長編アニメーションは無理だという判断をしたんです。
──今や“クールジャパン”といわれるような日本のアニメーションの世界をどのようにご覧になっていますか?
宮崎:誠に申し訳ないんですけども、私が仕事をやるということは、一切映画もテレビも見ない生活をするということです。ラジオだけ朝ちょっと聴き、新聞はパラパラと見ますが、あとは全く、驚くほど見てません。ジャパニメーションというのがどこにあるのかすら分からない。これに対する発言権は僕にはないと思います。みなさんも私の年齢でデスクワークをやっていたらわかると思いますが、気を散らすことは一切できないんです。スタジオの映写室で何本か映画をやってくださるんですが、大抵、途中で出てきます。仕事をしたほうがいいから(笑)。そういう不遜な人間なので、今が潮時だなと思います。
──映画監督で引退宣言する方は少ないが、あえて引退宣言という形で公表されたのは?
宮崎:引退宣言をしようと思ったわけじゃないんです。スタッフに「もう辞めます」と言いました。その結果、プロデューサーからそれに関して、「取材の申し入れがあると思うが、どうする?いちいち受けてたら大変だ」と話があり、アトリエやスタジオの会議室でやろうと思ったが、人数が多すぎて、こうなっちゃった(笑)。これは“何か”ないと…と思い、「公式引退の辞」を書いたわけです。こういうイベントをやる気はさらさらなかったんです(笑)ご理解ください。
──宮崎映画が日本の映画界に及ぼした影響について
鈴木:そういうことはあまり考えないようにしています。そういう風に見ていると、目の前の仕事ができなくなるんです。僕が宮崎作品に関わったのは『ナウシカ』からですが、そこから約30年間ずっと走り続けてきて、同時に、過去の作品を振り返ったことはなかった。それが仕事を現役で続けるということだと思っていた。どういうスタイルで映画を作っているのか、なるだけそういうことは封じる。尚且つ、その作品が世間にどういう影響を与えたのか、僕は考えないようにしていました。
宮崎:全く僕も考えていませんでした。採算分岐点にたどり着いたと聞いたら、「よかった」と。それで終わりです。
──(フランスのメディアより)先ほどイタリアは好きという話でしたが、フランスはいかがですか?
宮崎:正直に言いますね(笑)。イタリア料理のほうが口に合います(笑)。クリスマスにたまたま行った時に、どこのレストランに入ってもフォアグラが出てくるんです。それが辛かった(笑)。ルーブル(美術館)は良かったですよ。いい所はいっぱいありますが、料理はイタリアの方が好きです(笑)。フランスには、ポール・グリモー(『王と鳥』)というアニメ作家がいて、1950年代に公開されて、甚大な影響を与えた。それは少しも忘れていません。今観ても、その志や世界の作り方については本当に感動します。いくつかの作品がきっかけになってアニメーターをやっていこうと決めたわけですが、フランスで作られた作品からは大きな影響を受けました。
──1963年に東映動画に入社して以来、振り返って辛かったこと、良かったことは?
宮崎:辛かったのはスケジュール。どの作品も辛かったです。終わりまで分かっている作品は作ったことがないんです。見通しがないまま入る作品ばかりなので、毎回辛かったとしか言いようがない。最後まで見通せる作品は、僕がやらなくていいと勝手に思い込んで、企画やシナリオを書きました。新聞連載や月刊誌のように絵コンテを描くわけですが、スタッフは、この映画がどこにたどり着くのか分からないまま作業するのですから、よく我慢してやっていたと思います。でもその時間が、ジブリにとっては意味があった。同時に、上がってくるカットを、ああでもないこうでもないと自分でいじっていく課程で、前よりも映画の内容について自分の理解が深まることも事実。それによって先のことが考えられる。あまり生産性には寄与しない方式でしたけれども。トボトボとスタジオにやってくる日々になってしまう。50年、そういう仕事でした。

監督になって良かったと思うことは一度もありません。アニメーターになって良かったと思うことはあります。アニメーターって、何でもないカットが描けたとき、うまく風が描けたとか、水の処理や光の差し方がうまくいったとか、そういうことで2〜3日は幸せになれる。短くても2時間ぐらい幸せになれる。監督は、最後に判決を待たなければならない。これは胃によくない。アニメーターを最後までやっていたつもりだが、アニメーターは自分に合っている良い職業だったと思う。
──それでも監督をやってきた理由は?
宮崎:簡単な理由でして、高畑勲と労働組合の事務所で出会って、ずいぶん長いこと話をしました。最初に組んだ『ハイジ』の時、全く打ち合わせの必要がない関係になっていたんです。お互いに何を考えているのかが分かる。監督はスケジュールが遅れると会社から怒られるので、高畑勲は始末書をいくらでも書いていましたけど、そういうのを見るにつけ、僕は監督はやりたくない、映像をやっていればいいんだと思っていました。しかし、ある時期がきて、一人で監督をやれといわれた時は途方に暮れたんです。音楽家と打ち合わせなんて、何をしたらいいのか…。途中、高畑監督に助けてもらったこともありますけど、その戸惑いは『風立ちぬ』まで続いていたと思います。監督をやっている間も、アニメーターとしてやってきたので、多くのとんちんかんがいっぱいあったと思うが、それについてはプロデューサーがずいぶん補佐してくれました。そういうチームというか、腐れ縁があったおかげでやれてこれたんだと思います。決然と立って、一人で孤高を保っている、そういう監督ではなかったんです。
──高畑監督の『かぐや姫の物語』はご覧になりましたか?
宮崎:観てません。今日ここに一緒に並ぼうと思ったけど、断られた。まだまだやる気だな(笑)。
──『風立ちぬ』の最後の場面の台詞を鈴木さんが変えたと聞きましたが、宮崎さんにとっては悔いのないものになりましたか?
宮崎:最後は本当に煩悶しました。とにかく絵コンテをあげないと制作デスクの女性が恐ろしいんです(笑)。形にしないとどうにもならない。でも、台詞は変えられますから、後で仕切り直ししたんです。最後の草原は、煉獄であると仮説を立てました。ということは、菜穗子はベアトリーチェ(ダンテ『神曲』に登場する女性)であると設定したら自分の中でこんがらがったのでやめました。『神曲』なんか読むからいけないんですね。
──長編アニメの世界で、伝えたいものを伝えたという達成感はありますか?
宮崎:その総括はしてません。自分が手抜きしたという感覚があったら辛いと思うけど、とにかく辿り着ける所までは辿り着いたと思ってましたから、終わった後はその映画は観ませんでした。駄目なとこはわかっているし、いつの間にか直っていることもないので、振り向かないようにしてきました。同じことはしないつもりでやってきました。
──40代半ばでジブリを立ち上げ、日本社会はどう変わってきたと思っていますか?
宮崎:ジブリを作った時を思い出すと、浮かれ騒いでいた時代だったと思います。経済大国になって、ジャパン・アズ・ナンバーワンと言っていた時代。そういうことに、僕はかなり頭にきていました。頭にきていないと『ナウシカ』なんか作りません。『ナウシカ』『ラピュタ』『トトロ』『魔女の宅急便』というのは「経済は賑やかだけど、心はどうなんだ?」と思いながら作っていた。1989年にソ連が崩壊し、日本のバブルもはじけた。その過程で、戦争が起こらないと思っていたのに、ユーゴスラビアが内戦状態になり、歴史が動き始めた。今までの作品の延長上に作れないという時期がきたんです。その時は豚を主人公にしたり、高畑監督は狸を主人公にして切り抜けました(笑)。そこから長い下降期に入った。僕らのスタジオは、経済の登り調子の時、バブル崩壊のところに引っかかっている。それがジブリのイメージを作った。その後は、ジタバタしながら『もののけ姫』作ったりしたが、『風立ちぬ』までズルズル下がりながら作ってきた。(下降が)長くなりすぎると、『ナウシカ』以降に引っかかっていたのが持ちこたえられなくなる可能性はある。ズルズルと落ちていくときに、自分の友人だけじゃなく、若いスタッフや子ども達の生きている横に自分はいるわけだから、なるべく背筋を伸ばして半藤さんのようにキチッと生きなければいけないと思っています。
──(中国のメディアより)ジブリ作品が中国で上映されることは?
星野社長:中国では規制緩和で外国映画の上映数が増えてはいますが、まだまだ本格的に日本の映画を上映する流れが出来ていない。前向きに考えてはいるが、現時点では、ジブリ作品は上映される状況にありません。
──好きな監督や映像作品は?
宮崎:今の作品は全然観ていないのですが…。でもジョン・ラセターやイギリスのアードマン(アニメ制作会社)にいる連中も友人です。ややこしいところで苦闘しながらやっているので、競争相手ではなく友人と思っています。高畑監督の映画は観ることになると思いますが、まだ覗くのは失礼になるので、我慢しています。
──『風立ちぬ』では、庵野秀明監督やスティーブン・アルパートなど、監督とゆかりの深い方が出演されている。そのキャスティングの意図は?
宮崎:僕は東京と埼玉の間を往復していますが、映画もテレビも見ていません。自分の記憶に甦ってくるのは、モノクロ時代の日本映画、昭和30年以前の作品です。暗い電球の下で、生きるのに大変な思いをしている若者や男女の物語です。失礼ですが、今のタレントさんのしゃべり方と聞くと、そのギャップに愕然とします。なんという存在感のなさだろうと…。庵野も、スティーブン・アルパートも、存在感だけです(笑)。かなり乱暴だったと思うけど、ピッタリだったと思う。

この『風立ちぬ』は、周りから音を出さず、音響監督が2人で済んだ。昔の映画は、そこでしゃべっている人にしかマイクが向けられないので、周りの人間がどんなにしゃべっていても、映像には出てこなかった。その方が世界は正しいんです。それをチャンネルが増えたからといって、あちこちにも音を入れて全体にばらまくと、情報量は増えたが表現のポイントはぼんやりしてしまう。今回は、プロデューサーもためらわずに「それでいこう」と、音響監督も同じ問題意識を共有できていた。こういうことは滅多に起こらない。色んなポジションの責任者が、音楽の久石さんも含め、とてもいい円満な気持ちで終えられた。こういうことは初めてだった。いつもは、もっとギスギス尖ったのを残しながら終わったものだが、20年ぶり30年ぶりのスタッフも参加してくれて、そういうことも含めて、いい体験として終えられた。運が良かったと思っています。
──5年前の『ポニョ』の公開時より痩せている気がしますが、健康状態はいかがですか?
宮崎:今、僕は63.2kgです。50年前にアニメーターになった時は57kgでした。結婚して3度の飯を食うようになり、一時は70kgを超えました。その頃の写真を見ると、醜い豚のようで辛いです。映画を作っていくために体調を整える必要がありますから、外食をやめました。朝ごはんをしっかり食べて、昼は家内の作った弁当を食べ、夜はおかずだけ食べます。そしたらこういう体型になりました。女房の協力のお陰なのか、陰謀なのか(笑)。僕は最後は57kgになって死ねればいいと思っています。健康はいろいろ問題がありますけども、心配して下さる方がよってたかって色々とやってくれるので、従っています(笑)。映画を1本作るとヨレヨレになります。この夏はものすごく暑くて、上高地ですら暑かった。歩き方が足りないので、もう少し歩けば、もう少し元気になると思います。
──ジブリの冊子「熱風」で、「憲法を変えるのはもってのほか」と発信していましたが、その理由は?
宮崎:「熱風」から取材を受けて、自分の思っていることを率直にしゃべりました。もう少しきちんとしゃべればよかったですが、別に訂正するつもりもありません。それを発信し続けるかというと、僕は文化人じゃないので、その範囲でとどめておきます。(この取材を受けたのは、)鈴木プロデューサーが、中日新聞で憲法について語ったんです。そうしたら、鈴木さんのところにネットで脅迫が届くようになった。そのことで、冗談まじりに「電車でブスッとやられるかもしれないよ」なんて話をしていて(笑)。これで鈴木さんが腹を刺されたら、知らん顔もできないから、僕も発言しよう、高畑さんにも発言してもらって、3人いれば的が定まらないだろうと思ったんです(笑)。脅迫した人は捕まったらしいですが。
──(10年というキーワードについて)振り返ってどんな10年だったか。また、この先の10年をどうなりたいと願っていますか?
宮崎:10年とは僕が考えたんではなくて、「絵を描く仕事をやると、38歳くらいに限界が来て、そこで死ぬやつが多いから気をつけろ」と画の先生に言われたんです。僕は18歳の時から修行を始めましたが、実際に監督になる前に、「アニメーションとは、世界の秘密を覗き見ることだ。風や人の動きや色んな表情、まなざしや体の筋肉の中に世界の秘密があると思える仕事だ」と分かった。自分の選んだ仕事が奥深くてやるに値する仕事だと思った時期があった。演出などでだんだんややこしくなるんですが、その時は自分は本当に一生懸命やっていた。これからの10年はあっという間に終わるだろうと思う。美術館作って10年以上たってますから、それ以上に早いと思う。
──引退を決意して、奥さんの反応は?
宮崎:家内に引退の話をした時、「お弁当は今後もよろしくお願いします」と言ったら「フンッ」と言われましたけども、常日頃から、「この年になって毎日弁当を作っている人はいない」と言われておりますので、「まことに申し訳ありませんが、よろしくお願いします」と言いました。外食が向かない人間に改造されました。
──(鈴木プロデューサーへ)ヴェネチアで引退を発表したのは?
鈴木:ヴェネチアへの出品要請はかなり直前でした。社内で引退を発表するスケジュールは決まっていたが、そこへ偶然ヴェネチアが入ってきた。宮さんには外国の友人も多いので、ヴェネチアで発表すれば、一度に発表できると考えました。まず発表してその後記者会見のほうが混乱がないだろうと。偶然、ヴェネチアが重なったんです。
宮崎:ヴェネチアへの参加を正式に聞いたのは今日が初めてです(笑)。
鈴木:ヴェネチアについてコメント出しましたよ?リド島が大好きって。
宮崎:そうでした!リド島が大好きです。(ジャンニ・)カプローニの孫がたまたま『紅の豚』を観て、カプローニ社の飛行機の図面を送ってきたんです。変な飛行機だとしか思っていなかったが、その構図を見て胸を打たれました。ジャンニ・カプローニはルネッサンスの人なんだと思うと非常に理解できた。経済的基盤がないところで航空会社をやっていくためには、“ハッタリ”や“ホラ”も描かなきゃいけない。そういうのが航空史に残っていると思うと、とても好きになった。そういうことも今度の映画の引き金になった。自分の抱えているテーマを作ろうと思っているわけではなく、突然送られてきた一冊の本とかそいういうものがいつの間にか材料になっていくんです。
──堀田善衛がお好きだとのことですが、改めて集大成として堀田氏から引き継いだメッセージは?
宮崎:自分のメッセージを込めよう思って映画は作れない。何となくこっちに…と思って進んではいくが、自分の意識では捕まえられない。どこに向かって進んでいるが分からなくなるとき、堀田さん(の著書)は分かり易く、ブレずに示してくれるので、ずいぶん助けになった。大恩人です。
──『風立ちぬ』には5年かかったが、年齢以外で時間がかかった要素は?
宮崎:『ナウシカ』も『ラピュタ』も『トトロ』も『魔女の宅急便』も、いろんな材料が溜まっていて、出口があったらすぐに出てくる状態だった。その後は「さあ何を作るか」と探すのに時間がかかるようになった。最初の『ルパン三世 カリオストロの城』は、4ヶ月半で作った。それなりに寝る時間をおさえて一生懸命やったのでそれくらいで出来たが、若かったし、長編アニメーションをやる機会がこの後あるかどうか…、そんな気持ちもあった。今、それを保ち続けるのは無理。年もとるし所帯も持つし。どうしても時間がかかるようになった。同時に、実際に机に向かえるのは7時間が限度。この年齢になると、どうにもならなくなる瞬間が何度もくる。この仕事は今日でケリをつけようとか、そういうのも諦めて、鉛筆置いて放り出して帰るようになった。それでも限界ギリギリ。これ以上続けるのは無理なんです。
──最後に一言
宮崎:今日はたくさんお集まりいただき、ありがとうございました。本当に長い間お世話になりました。二度とこういうこと(引退会見)はないと思いますので(笑)。
「アニメーターはいい職業だった」宮崎駿監督、公式引退の辞/引退会見 全文
2013年9月6日
『風立ちぬ』
2013年7月20日(土)全国ロードショー
公式サイト:http://kazetachinu.jp