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浅田次郎も登壇『日輪の遺産』ジャパンプレミア ─ 自分と地続きのものとして歴史を捉えなければならない

日輪の遺産

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佐々部清監督、堺雅人主演の映画『日輪の遺産』のジャパンプレミアが、終戦記念日である8月15日(月)、ワーナー・マイカル・シネマズ 新百合ヶ丘で行われ、堺雅人、森迫永依、佐々部清監督、そして原作者の浅田次郎が舞台挨拶に登壇した。
浅田次郎も登壇『日輪の遺産』ジャパンプレミア ─ 自分と地続きのものとして歴史を捉えなければならない

上映前の舞台挨拶で堺雅人は、「(今回の役作りについて)あまり役作りといえるようなものはしていません。その時その時で、周りの方々の演技を受け考えながら演じました」。森迫永依は、女学生役の皆で相談しながら撮影に臨んでいたことを振り返りつつ、撮影の合間、「“男性陣の中だったら誰が一番好み?”みたいなことを話していました(笑)。一番人気だったのは中村獅童さん」と、等身大の女子トークを繰り広げていたことを告白。これには堺も思わず「現場の雰囲気から薄々気づいていましたが…」と苦笑い。森迫からの知られざるエピソード披露で、場を和ませた。

佐々部清監督は、今回の『日輪の遺産』が監督第10作目。その節目となる作品が、長年ファンだったという浅田次郎作品になった。「浅田先生の『鉄道員』のチーフ助監督をやらせていただいて、現場にお見えになった時、僕がコーヒーを持っていたんです。浅田先生にそのことを話したら、全く覚えてもらっていませんでした…(笑)。いつか浅田文学の監督をやる時が来るという夢みたいなことが起きないかと思ったら、10本目にひとつまた夢が叶って、プレッシャーというよりも、本当に幸せです」と、純然なるファンとしての願いが叶った喜びを改めてかみしめた。

このイベントが行われたのは、66回目の終戦記念日。浅田次郎も佐々部監督も戦後生まれにも関わらず、戦争を題材にした作品が多いことについて、「昭和20年に第二次世界大戦が終わった時、日露戦争から40年しか経っていないんです。そう考えると、今日までの66年というのはすでに長い歴史だということが分かります。昭和26年(1951年)生まれの僕が物心がついた昭和30年代には、もう戦争の面影も焼け跡も何もなく、今とあまり変わらない文化生活を送っていたような気がします。そのわずかの間に焼け野原から復興した日本人の底力というのは一体どんなものだろう、と考えました。戦争を知らない人間が戦争のことを描くことは大変僭越な話ではありますが、そういう時代に生まれ合わせた私が、戦争を描いて次の世代に小説という形で送り届けていくというのは、必要な仕事だと思っています」と、浅田。

同じく戦後・昭和33年(1958年)生まれの佐々部監督は、助監督としての最後の作品『ホタル』で、戦争を体験した降旗康男監督・高倉健(主演)のふたりの“戦争を伝えるために作る”という想いに触れ、そこに参加したことを誇りに感じたと振り返った。その上で、「8月13日に、この『日輪の遺産』を持って石巻の被災地に行きました。観客は50人位でしたが無料上映を行い、被災地の色んなところを歩き、今はこの被災地を僕たちがきちんと応援して、頑張らないといけないと強く感じました。この映画に最初に着手して公開まで5年かかりましたが、今この映画を皆さんに送り届けられることはとても意義があることで、それは喜びにもなっています」と、映画プロモーションではなく、一個人としてこの映画を被災地の方に届けてきていたことを明かした。

最後に、堺は、「8月15日というのは我々日本人にとっては忘れることのできない大切な記念日で、3月11日もおそらくそうなると思います。浅田先生が以前おっしゃっていた、決して人ごとではない自分と地続きのものとして歴史を捉えなければならない、という言葉が僕の中で強く引っかかっています。俳優とは、人様の書いた脚本を自分の言葉のようにしゃべる職業ですが、誰かひとりの人生に想いを馳せる作業自体が、戦争からとても遠いところにあるのではないかと思っています。今回の震災で亡くなられた方ひとりひとりに、ひとりひとりのストーリーがあって、そのひとりひとりに想いを馳せることが一番いいことなのではないか思っています」と話した。
2011年8月17日
『日輪の遺産』
2011年8月27日(土)、角川シネマ有楽町ほか全国ロードショー
公式サイト:http://www.nichirin-movie.jp/